播磨広域連携協議会

播磨広域連携協議会 > コラム・連載 > はりま風土記紀行 > 古の播磨を訪ねて~姫路市編 その6

はりま風土記紀行

古の播磨を訪ねて~姫路市編 その6

古の播磨を訪ねて~姫路市編 その6

 漢部(あやべ)・菅生(すがふ)・麻跡(まさき)・英賀(あが)の里

 播磨国風土記には「餝磨(しかま)という名がついたのは、大三間津日子命(おほみまつひこのみこと)が、ここに仮の家を作って住んでいらっしゃったとき、大きな鹿がいて、鳴きました。そのときこの王が「鹿が鳴くなあ」とおっしゃいました。そこで、餝磨という名がつきました。

 漢部の里 土地の肥え具合は中の上です。漢部というのは、讃岐の国の漢人(あやひと:百済等の人)らがやってきて、ここに住んでいたので漢部と名づけました。

 菅生の里 土地は中の上です。菅生というのは、ここに菅の原野があるので、そういいます。

 麻跡の里 土地は中の上です。麻跡という名がつけられたのは、応神天皇が国を巡行なさったとき、『この山をみると、目尻を割くように入れ墨した形に似ている』とおっしゃいました。そこで、目割(まさき)という名がつきました。

 英賀の里 土地は中の上です。英賀というのは、伊和大神の御子、阿賀比古、阿賀比売の二柱の神がここにいらっしゃるので、神の名前をとって里の名としました。」とあります。

 

 この部分は、「餝磨の郡」の冒頭部分で、「シカマ」という郡名が付いた所以が説明してあります。そして、最初に漢部の里についての記述があるのですが、ここでは、その名前の由来の説明だけに終わっています。「餝磨の郡」には、16の里が登場してきますが、この郡の条の最後に再度漢部の里が登場し、そこには「多志野(たしの)」「阿比野(あひの)」「手沼(てぬ)川」「馬墓(うまはか)池」「餝磨の御宅(みやけ)」についての記述があります。今回は、紙面の関係でこの5箇所の訳文は省きました。

 

 このうち、多志野は姫路市六角付近、阿比野は姫路市相野、手沼川は姫路市上手野・下手野辺りの菅生川(現在の夢前川)、馬墓池は姫路市岩端町の小字池町辺りを、餝磨の御宅は姫路市飾磨区三宅辺りを指していると一般的に言われ、漢部の里は、かなり広範囲に及んでいたと考えられます。

 

 次に、菅生の里は、現在の菅生川流域で菅生小学校の辺りを指しており、麻跡の里は、広畑区西蒲田・蒲田辺りを指すと考えられているようです。

 

 この「麻跡:まさき」に関しては、飾磨区山崎の「や・まさき」から当地を遺称地と考える説もあるようですが、広畑区西蒲田の城山神社の西から太子町原へ抜ける峠を地元では「まさき峠」と呼んでいました。現在は、所々すり減った石の階段らしきものが残っていて、けもの道のような細い道が続いていました。この峠に残された名こそ、風土記の名残と考えてよさそうな気がしました。

 

 最後に、英賀の里については、英賀神社の木村尚樹宮司からお話を伺うことができました。この里は、一般的にはJR英賀保駅周辺の英賀保地区を指すと言われており、英賀神社は、本文中に出てくる二柱の神様を御祭神として、この地に鎮まっています。また、この神社の秋祭りの特徴として、拝殿の中で屋台を練る「拝殿練り」が祭の特徴となっているとのことでした。確かに拝殿の梁には屋台の擬宝珠の突き刺さった跡が沢山残っていました。

 

 今回もあちらこちらと東奔西走しました。その中で、広範囲に及ぶのに「漢部」を使った地名等が一切残っていないのが残念でしたが、「あやべ→あまるべ→余部→よべ(余部)」と時代と共に変化したと考えると、現在のJR「余部駅」が風土記の名残と言えるのではないでしょうか。

 

 いつもそうですが、現地調査しているうちに、大勢の方に色々とお教えいただき、真新しい知識を得ることができます。「渡る世間に鬼はなし」を実感した日もありました。感謝!感謝!の日々です。         (餝磨の郡)