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はりま風土記紀行

古の播磨を訪ねて~明石市・加古川市編 その6

古の播磨を訪ねて~明石市・加古川市編 その6

 廝の御井(かしわでのみい)

 

 播磨国風土記には、「景行天皇が、日岡の上にお立ちになり、この土地が栄えるようにと四方をご覧になっておっしゃいました。『この土地は、丘と平野がとても広くて、この丘を見ると鹿児(かこ:鹿の子)のようだ』そこで名づけて賀古郡といいます。天皇が狩りをなさったとき、一匹の鹿が、この丘に登って鳴きました。その声はヒ-ヒーといいました。このため、日岡という名がつきました。

 この岡にいらっしゃる神は、大御津歯命(おおみつはのみこと)の子の伊波津比古命(いはつひこのみこと)です。この岡に褶墓(ひれはか)があります。なぜ褶墓という名がついたかといいますと、それは、こういうことがあったからです。

 昔、景行天皇が印南別嬢(いなみのわけいらつめ)に求婚なさったとき、賀毛(かも)郡の山直(やまのあたひ)らの先祖である息長命(おきながのみこと:別名伊志治)を仲人として、妻をめとる旅にお出かけになりました。・・中略

 天皇は、摂津の国の高瀬(現在の森口市内)の渡船場にお着きになり、淀川を渡りたいとお頼みになりました。しかし、渡し守の紀伊国の人・小玉は『私は天皇の家来ではありません』といいます。すると天皇は『朕公(あぎ:なあおまえ)そうだけれども、なんとか渡してくれ』とおっしゃいました。渡し守は『どうしても渡ろうと思うなら、渡し賃をください』と。そこで天皇は、すぐ旅行用の王冠をお取りになって、舟の中に投げこまれると、金色の冠の光が舟いっぱいに輝きました。渡し守は渡し賃をもらったので、天皇をお渡ししました。そこで、ここをアギの渡しといいます。

 ついに天皇は明石郡の廝の井戸にお着きになり、お食事をさし上げました。そこで、ここを廝(天皇の食事を作る人)の御井といいます。」とあります。 

 

 この部分は、現存している播磨国風土記の冒頭部分です。景行天皇の時代は、大体4世紀前半とされています。そして、播磨国全域が大和政権によって治められたのは5世紀の初めの頃と考えられています。淀川の渡し守が、天皇の言うことを素直に聞き入れなかったとありますので、景行天皇の時代には、摂津・播磨国はまだ完全に大和政権下に入っていなかったと考えられます。

 

 「廝の御井」は、釈日本紀に播磨国風土記の逸文として引用されている「駒手の御井」と同一ではないかとの説もあり、このシリーズ41回目で取り上げました明石市人丸町にある「亀の水」が比定地と考えられています。「廝の御井」=「駒手の御井」=「亀の水」ということでしょうか。        (賀古の郡)