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はりま風土記紀行

古の播磨を訪ねて~たつの市編 その4

古の播磨を訪ねて~たつの市編 その4

布勢駅家(ふせのうまや)

今回も『播磨国風土記』を少し離れて、たつの市揖西町小犬丸の「布勢駅家」を訪ねました。
「駅家」の数は時代により変遷していますが、927年に編纂された『延喜式』には、全国に402の「駅家」があったことが記載されていて、それによると、播磨国山陽道には7ヶ所存在したことが分かります。
400以上もあった「駅家」の存在場所については、「この辺りらしい!?」というところまでは、分かっていても、いずれもハッキリとした比定地はありませんでした。

ところが、昭和61年1月から実施された「小犬丸遺跡」の発掘調査により、数ある駅家の遺跡の中で、ここぞ「布勢駅家跡」と、駅家跡としては全国で初めて比定され、高校の日本史の教科書にも載るような大発見だったそうです。

当時の県の埋蔵文化財調査事務所によれば、文献による「駅家」は、瓦葺の建物であったようです。従来は、瓦が出土すれば寺院跡と考えるのが一般的でしたが、播磨国で古代山陽道上に、奈良時代後期の播磨国府系瓦がまとまって出土する遺跡は12ヶ所あり、このうちで、塔跡があって、確実に寺と分かるものは、5ヶ所しかなく、残りの7ヶ所は何なのか?という疑問が起こりました。
ところが、『延喜式』の7ヶ所の「駅家」は、ほぼ前述の国府系瓦出土遺跡と重なるのです。
このようにして、「小犬丸遺跡」は「布勢駅家跡」と推定され、それに『驛』や『布勢』の地名の墨書土器が出土していることが、このことを裏づける有力な証拠となったということです。

その後、『延喜式』以前に廃止された「邑美駅家・佐突駅家」が存在したことも研究により分かってきました。

今回も「駅家」を考察してきました。これで、播磨国の東から、「明石・邑美・加古・佐突・大市・布勢・高田・野磨」と8つの「駅家」をおさえることが出来ました。
残りは姫路の「草上駅家」だけですが、これが、諸説紛々としていて、さてさて、どこに存在したのか?そして、この「駅家」を直線的に結んでいた播磨古道はどこを通っていたのか?ロマンは果てしなく広がっていきます。