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はりま風土記紀行

古の播磨を訪ねて~姫路市編 その4

古の播磨を訪ねて~姫路市編 その4
「佐突駅家跡」石碑

佐突駅家(さつちのうまや)

 今回は、紫陽花が梅雨の合間の太陽に美しく映える6月の上旬に、姫路市別所町北宿の「佐突駅家」を訪ねました。国道2号線沿いに「佐突駅家跡」という石碑が建立されています。

 「佐突駅家」は、『播磨国風土記』は勿論ですが『延喜式』にも記載がありません。ただ、『続日本後記』承和六年(839)二月戊寅(つちのえとら)二十六日の条に「播磨國印南郡佐突駅家、旧に依(よ)りて建立す」と記されています。「旧に依りて」ということですから、一旦廃止されていた「駅家」を再び設置したものと思われます。

 ここには、かつて「北宿廃寺」と呼ばれ、旧山陽道想定路線の南に瓦の出土する遺跡がありました。その後の発掘で、播磨国府系瓦の「北宿式」の名前のもととなったこの「北宿遺跡」こそ、この「佐突駅家」と考えられるようになっています。

 また、この「駅家跡」の北東数百メートルのところにある白陵中・高校付近は、小字名を「馬ケ谷」と言い、古代、その谷間という地形を利用して、駅馬を放牧していたと考えられています。

 ただ、この遺跡周辺は大正時代から工場造成が盛んに行われ、特に近年の道路整備等、市街化は著しく、残念ですが「佐突駅家」の遺構の面影を残すところはほとんど消え去ってしまったと考えられているようです。

 この「はりま風土記紀行」で7回に分けて播磨国の「駅家」を取り上げてきました。何分、最大1370年も前(645年の大化の改新以後)のことのため、文書資料は限られていますし、発掘現場は工場化・市街化されている部分も多く、遺跡そのものが現時点では消滅してしまったと考えざるを得ない「駅家」もありました。
その中でも兵庫県立考古博物館をはじめ各市町の地道な調査のお陰で、おおまかにそれぞれの地点をおさえることができ、残りは、姫路市の「草上駅家」と、たつの市の「小犬丸遺跡」所謂「布勢駅家」となりました。これら9つの「駅家」を繋いでいけば、古代山陽道・播磨古道がおぼろげながら見えてくるような気がします。