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はりま風土記紀行

古の播磨を訪ねて~明石市編 その4

古の播磨を訪ねて~明石市編 その4
長坂寺遺跡説明文1
古の播磨を訪ねて~明石市編 その4
長坂寺遺跡説明文2

邑美駅家(おうみのうまや)

今回は、風薫る5月の中旬に、明石市魚住町の「長坂寺(ちょうはんじ)遺跡」を訪ねました。

第二神明道路の大久保IC上りで降りて左折し、大久保インター前の信号を右折して、道なりにどんどん進みました。
「竜が岡4丁目」の信号を左折して、県道379号線に入ってすぐ次の「北場」の信号を90度に右折して379号線を約3㎞ほど直進、その間の3つ目の点滅信号を左折し、旧山陽道に入ってすぐ左手が目的地です。
ここまではナビ無しでも案外スムーズに行くことが出来ました。

県立考古博物館によると、この地では、大正年間から古瓦が採集されていて、長年古代寺院の廃寺跡と考えられ、一般に「長坂寺遺跡」と呼ばれています。
平成22~23年にわたって調査したところ、築地塀跡が、一辺80mの方形区画の「駅家」であることがわかりました。
古代山陽道沿いで古瓦の出土ということ、そして、古代山陽道上に「駅家」の位置を当てはめていくと、丁度ここが「駅家」にふさわしい場所と考えられ、従来から言い伝えられていた廃寺跡ではなく「駅家」跡と確認したということです。

ただ、この「長坂寺遺跡」は、『延喜式』『和名類聚抄』『続日本記』等の書物に「駅家」としては一切記録されていません。早くに廃止されてしまったようです。
この辺りで「山陽道」と呼ばれている道から約10mほど北に入った木々の間に、明石市教育委員会が標柱を立てていましたが、これを見つけるまでが大変でした。道行く人に尋ねて、3人目で建立場所を確認出来ました。

それには『古代山陽道の明石の駅家と賀古の駅家の中間につくられた駅家跡と考える』と説明されていました。古代の地名の「邑美郷」にちなんで、仮称「邑美駅家」と呼ばれるようになり、これが「邑美駅家=まぼろしの駅家」と言われている所以なのです。

普通「駅家」は30里(約16㎞)ごとに置かれていましたが、播磨国の山陽道だけは、半分の距離の15里ごとに9つの「駅家」が配置されていたことが分かってきています。古代山陽道は当時の幹線道路でしたから、往来する人が多かったということでしょうね。