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はりま風土記紀行

古の播磨を訪ねて~稲美町編 その2

古の播磨を訪ねて~稲美町編 その2
望理(まがり)の里
 播磨国風土記には、「景行天皇が、土地の繁栄を祈って国の様子を見て回る巡行の旅に出られたとき、この村の川の曲がっているのを見て、『この川の曲がり具合は、とても美しいなあ』とおっしゃいました。そこで、マガリといいます。」とあります。
 今回は、稲美町を訪ねました。播磨国風土記に記載されている「マガリ」という地名が、ハッキリと残っているところは、現在は無いようです。ただ、JR加古川線の神野(かんの)駅西辺りの加古川(一説に加古川の支流の草谷川)の曲がり具合を景行天皇が称賛したものではないかと言われています。従って、「望理の里」は現在のJR神野駅西辺りから東の稲美町にかけての地域をそう呼んでいたものと考えられています。
 その後時代は下って、明治8年(1875)には推明小学校・成章小学校・弘道小学校を併せて「母里(もり)小学校」と改称し、明治22年(1889)には印南新村や野寺村等6ケ村が合併して「母里村」ができました。この「もり」は播磨国風土記の「望理の里」に由来すると言われています。それは、「望理」を「ぼうり」と発音し、「ぼうり」→「ぼり」→「もり」となまっていったと一般には考えられているようです。そして、明治28年(1895)には「母里村立尋常小学校」が設置され、昭和30年(1955)に母里村・加古村・天満村が合併して、稲美町が発足した後も、「母里小学校」の名前は残り、現在も加古郡稲美町野寺88-1には「稲美町立母里小学校」が存続しています。
 この母里小学校の例のように、播磨国風土記に出てくる地名の読みとは違った読み方で現在に残っているのも珍しく、今後未来永劫にこの母里小学校が続くことを願った次第です。
(出雲国風土記の母理《文理》郷や母里太兵衛との関係も色々調べましたがハッキリしない部分が多いので、今回は割愛しました。)
母里小学校の地図はこちら
(賀古の郡 望理の里)