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はりま風土記紀行

古の播磨を訪ねて~太子町編 その3

古の播磨を訪ねて~太子町編 その3

言挙阜(ことあげおか)・鼓山(つづみやま) 

 播磨国風土記には、「言挙阜というわけは、神宮皇后が朝鮮半島から帰ってこられ、難波で皇后に敵対する者たちに軍兵を向けられる日、この阜で、軍兵に『この軍隊は、戦いをすると決して言挙げ(口に出す)してはならない』と訓令を出されました。そこで名づけて、言挙前(ことあげさき)といいます。

 鼓山 昔、額田部連伊勢(ぬかたべのむらじいせ)と神人腹太文(みわひとはらのおほふみ)がこの地で互いに争ったとき、鼓を打ち鳴らして戦いました。そこで、名づけて鼓山といいます。」とあります。

 今日は大寒。今回は、太子町を訪ねました。現在、太子町には「黒岡」という地名があります。一般的には播磨国風土記に出てくる「コトアゲ」が訛って「クロオカ」になったと考えられています。この「黒岡」地区の西北の隅には神功皇后・仲哀天皇をご祭神とする「八幡神社」が鎮まっていて、その北西約200mには「黒岡神社」が鎮座しています。また、現在、太子町「原(はら)」の県営天満山住宅のすぐ北西に「黒岡山」という小字が残っており、今は平地で住宅街になっていますが播磨国風土記の時代には、この辺りに小高い丘があって、ここから今の黒岡神社の丘陵辺りを、コトアゲオカと呼んでいたのではないかと考えられています。

 次にこの「原」は播磨国風土記の「ハラノオホフミ」の名残と考えられています。現在の「原」集落の東の端には「鼓原(つづみはら)大歳神社」が鎮座しています。「原」集落の地元の方の話では、「原大池(福井大池、天満大池とも言われています)の北部を埋め立てて現在は住宅街になっているが、その辺り一帯を『鼓ケ原(つづみがはら)』と呼んでいたが、この小字名は、地元住民でも、若い人はあまり知らないだろう」ということでした。

 いずれにしましても、今回の太子町探訪も、紆余曲折はあるものの、播磨国風土記の記載を今に伝えているように思い、真冬の北風吹きすさむ「原」地区の寒々とした冬枯れの田の中で、古代人も見たであろう南に連なる美しい京見山の連山を見ながら、春を待ち遠しく思いました。 

(揖保の郡 大田の里)

黒岡神社の地図はこちら↓

http://yaokami.jp/1283529/