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はりま風土記紀行

古の播磨を訪ねて~宍粟市 編 その2

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御形神社
御形神社

御方(みかた)

播磨国風土記には

葦原志許乎命(あしはらしこをのみこと)が天日槍命(あめのひぼこのみこと)と黒土の志爾嵩(しにだけ)に登って、それぞれ黒蔓(つづら)の三条(みかた)を、足に着けて投げました。
そのとき、葦原志許乎命のツヅラの一条(ひとかた)は但馬の気多の郡(豊岡市城崎町の南部)に落ち、もう一条は夜夫(やぶ)の郡(養父市養父町)に落ち、三つ目の一条はこの村に落ちました。
そこで、ここを三条(みかた)といいます。天日槍命のツヅラは、全て、但馬の国に落ちました。そこで、但馬の出石の土地を占拠することになりました。
ある人がいうには、伊和大神が形見(土地の占拠の標示)として、杖をこの村にお立てになりました。そこで、御形といいます。」とあります。
この場面は粒丘(いいぼおか)の国占めの争いから始まる葦原志許乎命と渡来人天日槍命との最後の一戦の場面です。
その途中の奪谷(うばいだに)の条では、土地争奪が激しいために谷の地形を変形させるほどのものであったとも記載されています。
古代における土地占め・国占めの凄さに驚いてしまいます。 また、上記の風土記本文の最後に出てきますように、葦原志許乎命はこの地を治め、去られるに当たり、その行在(あんざい:高貴な方の仮の住まい)の証に愛用の杖を形見として、その村に刺されました。
そこで、御形代・形見代ということで「御形」という名前がついたという説もあるとのことです。

さて、この「葦原志許乎命」をご祭神とする神社が、宍粟市一宮町森添に鎮まっています式内社「御形神社」です。
重厚な檜皮葺(ひわだぶき)の本殿は、宍粟市で唯一国の重要文化財に指定されています。
本殿は、室町時代に創建されたもので、何回か塗り替えられているようですが、創建当時から朱塗りであったと伝わっている豪華絢爛なご社殿を拝見しますと、その昔、この地域がいかに豊かであって、葦原志許乎命と天日槍命が国占め争奪をしたことも納得がいくような気もしました。

[宍禾の郡 御方の里]

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