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はりま風土記紀行

古の播磨を訪ねて~たつの市 編 その2

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野見宿禰の墓屋
野見宿禰の墓屋

立野(たちの)

播磨国風土記には
「昔、土師(はにし:埴輪や古墳の作製に携わった人)の 野見宿禰(のみのすくね)が、大和から出雲の国へ通う途中、 日下部野(くさかべの)に泊まりましたが、病気になって亡くなりました。
そのとき、出雲の人がやってきて、大勢の人を野に並べ立てて、 川の小石を手から手に運んで、墓の山を作りました。
そこで立野と名づけました。
また、その墓屋(陵墓)を名づけて、出雲の墓屋といいます。」
とあります。

ここに出てくる野見宿禰は、出雲出身の相撲の元祖と言われている人物で、 この「立野」は現在の「たつの市龍野町」に比定されています。
梅雨明けの真夏の昼下がりに、たつの市の龍野公園の西にある野見宿禰神社を訪ねました。
龍野神社の北のなだらかな石段を登って行くと野見宿禰神社の灯籠の前に着きました。
東屋もあり、小休止しながら眺めたここからの龍野平野の見晴らしはなかなかのものでした。
翻って灯籠のところから急峻な石の長い階段を見上げますと、それだけで汗が噴き出しそうになりました。
その階段をそれこそ汗だくだくになりながら登り詰めますと、 そこには「野見宿禰の墓」と言われている「出雲の墓屋」がありました。
一息ついてから改めて墓屋を見てみますと、一面草木で覆われていましたが、 墓屋の周りの囲いの石は直径30㎝前後の河原の石とわかる丸い石でした。
出雲からやって来た大勢の人々が、揖保川からの人海戦術で一生懸命石を運んでいる光景が浮かんできました。
この草木の下には、囲いよりも小さい目の、人々が手から手に運んだ石が 整然と山のように敷き詰めらているのであろうと想像しながら墓屋を一周しました。
野見宿禰の墓屋の立派な石の扉には、 出雲大社の宮司「千家」家の家紋である二重亀甲剣花菱紋が刻印されており、 出雲からそれこそ有力者をはじめ、多くの人々が此の地にやって来て、野見宿禰の死を悼み、 この「出雲の墓屋」を築いたのであろうと思うと、いつの間にか暑さも忘れてしまっていました。

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