播磨広域連携協議会

はりま風土記紀行

古の播磨を訪ねて~三木市 編

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志染の石室
志染の石室

志深の石室

播磨国風土記には
「オケ(仁賢)、ヲケ(顕宗)両天皇が志深(しじみ)の里にいらっしゃったわけは、その父の市辺押磐皇子(いちべのおしはみこ:父は17代履中天皇)が近江の国で雄略天皇(21代)に殺されたとき、日下部連意美(くさかべむらじおみ)が、オケ、ヲケの皇子を連れて逃げてきて、この村の石室(三木市志染の窟屋)に匿いました。
クサカベムラジオミは自分が犯した罪の重いことを自ら悟り、自殺しました。
その後二人の皇子はあちらこちらと隠れ、結局、志深の村の首長の伊等尾(いとみ)の家に召し使われる身となりました。
あるとき、イトミが新築祝いをすることになって、二人の皇子に篝火をともさせ、祝い歌を詠わせました。
兄弟の皇子は互いに譲りあったあげく、弟のヲケ皇子が詠いました。

 吉備の鉄で作った鍬を持ち
 田を耕すように
 手拍子をとって囃しなさい
 私は舞いましょう
 続いて詠って
 近江は水のたまっている国
 大和は周りを垣根のように青い山が取り囲む国
 その大和で天下を治められたイチベの子孫です
 下男の私たちは

これを聞いた人々は恐れ多いことだと、室内から走り出て、皇子の前にひざまづきました。
このとき、播磨の国にある大和朝廷の領地を治めるために派遣されていた山部連少楯(やまべのむらじをだて)が、歌を聞き、お顔をよく拝見して言いました。
『このお子様のために、母君の手白髪命(たしらがのみこと)は、昼は食事も召し上がらず、夜はお休みにもならず、死にそうな思いで泣いて、思いを馳せておられたお子様方です。』
と。そこで、ヲダテは朝廷に参上して上記のことを申し上げました。
すると、母君は喜び泣き、ヲダテを再び播磨に遣わし、二人の皇子をお召しになりました。
その後、皇子たちは志深の里に帰って、宮をこの土地に作ってお住まいになられました。」
とあります。

古代、政権争い・皇位継承争いに巻き込まれ、播磨の地に逃げ隠れ住んだと伝わるオケ・ヲケ皇子。
三木市志染町御坂の三木総合防災公園のある丘陵の志染小学校よりのところには、二人の皇子が隠れたと伝えられている石室が残っていて、
「史蹟 志染の石室 兵庫県」と刻された標柱が立っています。
石室の前には玉垣があり、その中に小さな社が建立されていて、現在は湧き水がたまっています。
側の説明版によると、この水は冬から春にかけての時期、ヒカリ藻という小さな藻によって水面が金色に輝くという不思議な現象をおこすことがあるそうです。

[美囊(みなぎ)の郡 志深(しじみ)の里]

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