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はりま風土記紀行

古の播磨を訪ねて~太子町編 その5

古の播磨を訪ねて~太子町編 その5

 枚方(ひらかた)の里

 

 播磨国風土記には「土地は中の上です。枚方と名づけたわけは、河内国茨田(まむた)郡枚方の里の漢人(あやひと:百済等からの渡来人)がやってきて、初めてこの村に住みました。そこで枚方の里といいます。

 佐比(さひ)佐比と名がついたわけは、出雲の大神が神尾山にいて、出雲の国の人がここを通るとき、10人の内5人、5人の内3人を遮断しました。そこで出雲の国の人々が、佐比(サヒ:鍬などの農具)を作って、この神を祀ったのですが鎮まりません。その理由は、比古(男)神が先に来て、比売(女)神が後から来ましたが、男神は、鎮座できずに去って行きました。このため、女神が恨んで怒っているのです。その後、河内国茨田郡枚方の里の漢人が来て、この山の麓に住んで、女神を敬い祀ったので、神の怒りが鎮まり、この神がいたことから名を神尾山といいます。また、佐比を作ってこの神を祀った所を佐比岡と名づけました。」とあります。

 

 この条に出てくる「佐比岡」は現在の太子町佐用岡(さよおか)、「枚方」は佐用岡の小字の平方と考えられ、風土記の地名は今も頑張っています。また、「神尾山」は現在の笹山、「比古神」「比売神」が鎮まっていた所は、笹山にある男明神、女明神と呼ばれている所が比定地と伝わっています。

 

 3月下旬のよく晴れた日に、太子町を訪ねました。先ず、笹山の東側を、男明神を目指して登りました。山道はかなり整備されていましたが、普段から運動不足の筆者にとっては大変なものでした。枯れ枝を杖にして、ゆっくり歩いて約20分、男明神に到着。当日は、天気が良すぎて、残念ながら少し霞んでいましたが、それでも、遥か南には家島諸島を望むことができ、眼下には風土記の「枚方の里」が広がっていました。次に、尾根伝いに女明神を目指しました。標識には0.91㎞とありました。途中、シイの木から吊るされた一本綱のブランコがあり、小休止がてら童心に戻って楽しみました。そして、女明神に到着。ここからは、風土記の「枚方の里」とたつの市街地の眺めを楽しむことができました。男明神・女明神ともに岩肌がむき出しになっていて、いかにも神が宿りそうな雰囲気の岩でした。

 

 帰りに立ち寄った平方公民館では、ご近所の方に播磨国風土記では『ひらかたの里の中にさよ岡』があるが、それが長い歴史の中で、現在のように『さよ岡の小字がひらかた』となったことなど、地名の由来について色々とお話することもでき、有意義な太子町巡りの締めくくりとなりました。          (揖保の郡)